スモールステップは思っているよりもスモールで ②
前回はスモールステップという考え方を紹介した。
似たような考え方・テクニックが世の中には他にもたくさんある。
「困難は分割せよ」や「千里の道も一歩から」、「継続は力なり」という名言や、大谷翔平で有名になったマンダラート、ビジネスの世界ではタスク管理、歴史では分割統治、学習法ではポモドーロテクニック、自己啓発系では成功体験など。
これらは微妙なニュアンスの違いこそあれ「目標達成のために小さなステップを積み重ねる」という共通点があり、それが本質であるように思う。
ややこしいテクニックの話にせずとも、単に「ハードルを下げる」と考えればよい。
そしてハードルを下げる場合には、思っているよりもはるかに思い切った下げた方をした方が効果的な場合がある、ということを伝えたかった。
またもう1点、保護者が子供に変化を求める場合の注意点についても考えたかった。
子どもが良い方向へ変化することは保護者にとっての目標であり、子ども本人にとっての目標であるとは限らない、ということである。
例えば遊んでばかりいる子どもに対して「勉強しなさい!」と叱ったとする。
こんこんと説教をし、最終的には子どもの口から「毎日必ず2時間の勉強をする」という約束を引き出したとしよう。
しかしこれは子どもの側からすれば説教の時間を終わらせるために「言わされた言葉」である可能性が高い。
あるいは説教の内容に納得しているとすると、そのときは勉強した方がよいと感じて「言ってみただけの言葉」である場合や、努力できる人間になりたいと思って「言ってみただけの言葉」である場合がある。(つまりただの願望であり、覚悟があるわけではない。)
何にしても本人が自分で設定した目標ではないので説教を境に突然変化して勉強をし始める、などということは絶対にない。
そうなると次は「自分で毎日2時間勉強するって約束したのに何でしないの!」と叱る、となるわけである。
言質を取っているぞと言わんばかりに自分の正当性を主張し、子どもの不誠実さを非難するわけだが、子どもからすれば「言わされた言葉」や「言ってみただけの言葉」でしかなく、なんでそんな風に言われなきゃならないの?という不信感につながってしまう。
(このパターンの家庭は昔から非常に多いので色々とまとめたいところだが、話が逸れるのでいずれどこかで。)
単に言わせただけであり、子ども本人にとっての目標になっていない、というのはこういうことである。
さて、今回は勉強をしない子に対してどう接するのか、少し広めの視点で考えてみる。
広めの視点なので細かい点には今回は触れない。
まず本人が勉強に対してどう思っているか。
ほとんどの子は勉強のできるできないに関わらず、今よりもできるようになりたいと思っている。
ところが中学生以降になってくると勉強(学歴)以外で勝負して生きていこうと考える子が出てくる。
これは単純な現実逃避ではなく、自分自身の性格とそこから考えられる適性から結論を出している場合がある。
そういう子はとても少ないが、もしそういう子である場合は本人の好きにさせてあげるのがいいように思う。
次に子どもが今よりも勉強ができるようになりたいと思っている場合。
勉強しない子であっても「今よりもできるようになった方がメリットがある」とわかっている子は多い。
じゃあなぜしないのか?
その理由は通常、たくさんの要素が絡んでいる。
「勉強するメリットがある、だからやる。」という単純な理屈にはならないし、説得する場合もそんな論理では通じない。
そこで勉強しない理由(複数)について考える必要があるが、これは子どもそれぞれによって全く違う。
また、同じような理由であったとしてもそれぞれの比率・比重が違っているはずだ。
ここで勉強しない理由について、思いつく範囲で書き並べてみる。
・ 勉強がわからない
・ 授業で言っていることが理解できない
・ 勉強方法がわからない
・ やってもできるようになる自信がない
・ 完璧主義(やっても上位に入れるとは思えない)
・ 苦手意識が強い
・ 叱られすぎている
・ 褒められることがない
・ 他人(主に親や教師)に従うようで屈辱
・ 燃え尽き症候群
・ 選択肢が多すぎて選べない
・ 面白味や価値を感じない
・ 他にやりたいことがある(本や漫画、部活、習い事など)
・ 依存症(ゲーム、SNS、テレビ)
・ 学習環境が整っていない
・ 社会の中での自分の役割がわからない
・ 将来仕事などをして生きていける自信がない
・ 世の中の理不尽を受け入れられない
・ 不安や悩みがある
・ 周囲の期待によるプレッシャー
・ 家庭内不和
・ うつ病
他にもまだまだあると思う。
こうした様々な可能性があり、そしてそれらが絡み合っている状態であると考える。
また、「認知的不協和」の状態にあることが多いことと、問題は時間の経過とともに変化していくことも理解しておく。
※ 認知的不協和とは目の前の現実と自分の行動(あるいはおかれている状況など)の間に矛盾が起こった時、自分の行動に何かしらの理由をつけて納得し受け入れようとすること。
例えば…
勉強をしなければいけないと思っているし、勉強ができるようになったらいいとも思っている子。
しかしやってもできるようになる自信がないし、勉強するのは大変でストレスを感じるため、ついショート動画ばかり見てしまう。
その様子を見た親から勉強しなさいと叱られ、さらに小一時間説教をされてしまう。
でも勉強ができる人間、勉強ができるようになるための努力ができる人間、そういう人間になりたいと本心では思っている。
1日2時間の勉強をするためには2時間分の時間の確保が必要だが、そこまでは考えずに「毎日2時間勉強する!」と勢いで言ってしまう。
しかしこんな約束をするのは今回が初めてというわけではなく、今までに何度もしてきている。
そのことはわかっているが、でも今回は本気で勉強する人間になりたいと思ったのだから嘘ではない。
そして翌日、いつものように過ごした結果、時間がなくなり勉強をせずに眠ってしまう。
今日はできなかったけれども、明日頑張ればいい。
そしてさらに翌日の夕方、なかなか行動にでない様子を見かねて親が叱る。
でも、今日は頑張るつもりでいたのに…。
言われたからやる気がなくなってしまった。
そんな日々を繰り返すうちに勉強をしない理由を探すようになる。
自分には向いていない、自分はそもそも努力ができない人間なのだ。
授業が面白くない、わかりにくい、こんな授業ではやる気になれない。
将来やりたいことがあるわけじゃないし、勉強する意味もない。
(いや、本当はあったけどそれを言うと「じゃあ勉強しろ」って言われるし、頑張ってもその仕事につける自信もないし…。)
次第に学校へ行きたくなくなってしまう。
努力してキラキラ輝いているように見えるみんなの輪の中にいられる気がしない。
上記は作り話だが、似たようなケースはたくさんあると思う。
「思う」と曖昧な書き方なのは、根っこにあるものが本人にもわかっていないケースが多いためだ。
そのため色々な場合を想定して観察し、接し方を考えていく必要がある。
さて、上の例の設定では様々な認知的不協和が見られるのだが、どれくらい気が付かれただろうか?
また、最終的にはこの子が抱える問題が最初と大きく変わってしまっていることにも注意して欲しい。
大人でもそうだが、自分ですら自分の本心や自分の抱える問題の出発点は把握できていないものだ。
だからそのときに言っていることや考えていることを鵜呑みにはできない。
話がスモールステップから逸れた上に長くなってしまったので今回はここまでで。